JRを罰する前に…福知山線脱線事故に思う

こんばんは。
まず最初に、2005年4月25日に発生したJR西日本・福知山線列車脱線転覆事故に遭遇され、被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げますと共に、早期のご回復を心よりご祈念申し上げます。また、亡くなった皆様に、心より哀悼の意を表します。

あの日本鉄道史上最悪の事故と言って差し支えのない、福知山線列車脱線転覆事故(以下、福知山線脱線事故)の発生から6年を迎えました。
この間に、国土交通省・航空鉄道事故調査委委員会(事故調)からのリーク、山崎前社長の起訴など、法的・技術的両側面における様々な問題が噴出しています。
今回、この事故に関して、朝日新聞社の調査により、山崎前社長の裁判の傍聴者の約半数が法人に罰則がないのはおかしい、行政罰の実施を求める声が上がったことが分かったので、この記事を書いています。

私の考えは、以下の通りです。
1) JR西日本が法人として刑事罰に浴するのは妥当ではない。(事故に直接関連する限りにおいて)
2) JRを罰するより何より、真っ先に講じられるべき安全策が報道されていない。

その理由を以下に詳述して参ります。
1) JR西日本が法人として刑事罰に浴するのは妥当ではない。
まず、福知山線脱線事故は、ATSの設置不良やボルスタレス台車の構造的不備など、学者によっても見識が分かれるところではあありますが、少なくともいえることは、JR西日本は当時における国土交通省の各種政令に反していた事実は認められないと言うことだと思います。
もちろん個々の事案を考慮すれば、ATSのスイッチをONにしない状態で走行(保安装置未投入状態での走行)したり、速度超過したり、と言うのはあるかと思いますが、これらは発覚すれば適正に処分されており、会社ぐるみでこれらを支援した形跡はありません(保安装置未投入防止支援装置やEB/TE装置などの保安装置は適正に装備されていた。現場の”勝手な”判断でオフになっていたり、結線されていなかったりというのはあったが、少なくとも設計段階・配車段階においては実装されていた)。

また、JR西日本が組織的に事故を起こしたわけではありませんし(業務上過失致死傷罪)、T運転士との共犯関係は構成されていたとはいえないと思います。

だとすれば、JR西日本は事故の直接要因として刑事罰に浴するのは妥当ではないという結論は当然の帰結のように思われますし、逆に、刑事罰を、という話は受け入れがたいものとなります。

ただし、JRが事故が起こるというのを確実に把握していたとすれば、刑事罰に浴するのは妥当といえます。しかし、JRは当該線区に速度制限を設けていましたから、その速度制限を超えていた今回の事案に該当するという判断は不適当といえます。
さらに、207系の車体構造に問題があったとしても、抑も鉄道車両は横からの衝撃を想定されて作られていません(横からの衝突は踏切部におけるトラックの侵入など、非常に限定的であるため)。また、車体の安全性について定めた政令にも適合していた(新製時は)訳ですから、これを法で罰しようと言うには無理があります。

次に、日勤教育の問題ですが、これは企業倫理としては問題があるにせよ、刑法で処断できる範疇にあるかというと、警察の捜査の結果でもこれで逮捕された人がいないことを鑑みるに、その範疇にないと言うことが出来るでしょう。
もちろん、労働法には反していた可能性はありますが。これは労働基準監督署や厚生労働省が処断すべき問題であって、刑法の範疇にはありません。

以上の結果を総合的に判断すると、JR西日本が刑事罰に浴するのは妥当ではないという結論にたどり着きます。

もちろん、JR西日本が全面的に「シロ」と言っているわけではありません。彼らには、日本の鉄道の安全性に対する信頼性を毀損したという責任は大きいですし、何より、500名を超える方々を殺傷せしめ、今も残る大きな障害を負わせたことは、万死に値します。
しかし、法律で処断されるべき問題は、刑法上の問題と言うより、むしろ、民法上の不法行為による損害賠償に当該すると考えられ、(現行の法制度に問題があるとしても)JR西日本に刑事処分を科そうという考えには賛同致しかねます。

2) JRを罰するより何より、真っ先に講じられるべき安全策が報道されていない。
日本人は何事にも落とし前をつけないと気が済まない質で、それがつくと忘れてしまう。それがいいときもありますが、今回に関してはマイナスに作用しているように思われます。
今回はJRを罰しようという(一種の)感情論に起因する意見が大きくなっていて、恐らくそのスケープゴートとして山崎前社長が選ばれたのだという風に解釈できるわけですが、それより、私たちは要請すべきことがあったはずなのです。

そうです、本当に、ATS-Pをつければ安全なんですか?という議論をすべきだったのです。
ATS-Pやさらにそれを高度化したATCを装着している営団日比谷線(現在の東京メトロ日比谷線)でも同種の事故はありましたし、ATS-Sw(報道ではJR西日本の装着していたATSを国鉄時代に開発されたATS-Sとしていたが、正確にはJR化以後に改良されたATS-Swであって、ATS-Sではない)でも大半の路線では事故が起きていません。(言葉は悪いですが)たまたまある一つの路線で発生した事故を挙げて、ATS-Sはダメだという議論はあまりにも飛躍に過ぎると思うのです。
また、保安装置未投入走行防止支援装置が装備されていたとしても、そのスピーカーをふさいでいたり、結線していなかったりすれば、何の意味も無いのです。

確かに、日本は事故を経て、色々な安全対策に乗り出してきたという事実はあります。
国鉄時代に起こった事故を受けて、難燃性を強化したり、ATSを装備したりしたことは、あまりにも有名です。
しかし、今回の事故は、果たして報道の言うように、ATS-Pを装備していれば、確実に防げた事故なのでしょうか。

たとえば、207系の装備していたボルスタレス台車は、営団日比谷線ののり上がり事故の際に構造上問題があるとして事故後初めての新形式である東京メトロ10000系ではボルスタ付き台車に戻しています。
たとえば、京浜急行では先頭車両に低重心なモーター付き車両を必ず配備しています(207系ではモーターのついていない車両もあった)。
たとえば、東京メトロでは推定脱線係数比1.2未満のカーブに脱線防止ガードを設置しました。

こういう対策を見れば、一目瞭然ですが、ATSだけでは事故は防げないというのが恐らく事実でしょう。
しかし、マスコミ報道はATS一辺倒。もちろん、わかりやすさ(という名の偏見)が一番大事なのは承知していますが、いくら何でもやり過ぎの感が否めません。

事故の抑止には、恐らく今後、根本から安全対策を見直す必要が生じると考えています。
地方鉄道では、経営の圧迫で速度照査対応型のATSを装備するだけでも四苦八苦しているのが現状です。国も財政面での支援をしていますが、「安全」というものに対して、我々が頭の片隅で無償で得られるものだと理解しているのではないかと思うのです。本当は、安全には多大なコストが要求されるのに…。銚子電鉄に対する支援は全国的な報道になりましたが、実際には並行在来線第三セクターや地元の要請で存置されている地方鉄道など、本当に支援の必要な鉄道はたくさんあります。それらに対して、「金がかかるのは仕方の無いこと」と受容できるか否かが、今後事故を発生させない一つのキーになるのではないか。そう半ば確信しています。

最後に、繰り返しではありますが、JR西日本は当然背負うべき咎があります。しかし私たちは、報道で知りうる真実は一片の真実のような何かであるのだと理解すべきではないかと思うのです。

追想:
事故の原因を徹底追求するなら、取り敢えず警察の初期介入をゼロに持って行く必要があるかと。
今回の事故に限らず、証拠品の大半をすぐに警察が回収してしまって、事故調が適切な事故原因の追及に踏み込めないところが日本の弱いところなのではないかと思います。まぁ、国交省の中の人が賢いのか、現在のところ、事故の再発は防げているように見えますが…。

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今日から通常更新モードへ

こんばんは。
まずは、震災(及び余震・原発などの関係災害)に被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
知り合い・身内にも被災者がおり、何もできない自分が歯痒くも思います。(一応教会と日赤を通じての募金はしましたが…)

一応、(内容的な意味で)今日から通常更新の様態にしたいと思います。ご了解いただければ幸いには思いますが…。

◆「公共の福祉」と喫煙
某ゴーストで嫌煙ネタがあったので。(某は明かした方が良いのかしら)

最近は禁煙地区が多くなっているわけですが、これは要するに、公共の福祉の問題を考慮する必要があるのではないかと思うわけです。

仮に嫌煙派>喫煙派だとすれば、残念ながら喫煙派の皆様にはある一定以上の我慢を強いることになります。公共というのはどうしても多数派によりますから、ある種当然かと。
ただし、それでも個人が個人の敷地等でたばこを吸う権利(があると仮定して)を抑圧する事は出来ません。行動の自由に反すると考えられるからです。そもそも、個人の敷地なのですから、当然公共の福祉が介入する余地はありません(ただし、隣人等に健康被害があった場合には、それも怪しいものですが…)。

嫌煙派=喫煙派だとすれば、大体同じ程度両方が歩み寄る事が理想になりますが、これにはより影響の大きい子供などへの配慮が要請されますから、我慢の程度としては若干喫煙派の方が高くなると思われます。例えば学校内での喫煙は禁止、とか。

同様に考えれば、嫌煙派<喫煙派であれば結論は最初の反対になるわけです。当然、社会的に健康などの影響を考慮すべき区域における制限はかかるでしょうが。

以上を見ると、喫煙派と嫌煙派の議論は二つの観点から行われる必要性がある事がおわかりいただけますでしょうか。それは、
(1) 公共の福祉という社会学・法学的観点からの議論
(2) 健康への影響、影響度の差異などの医学的観点からの議論
ということです(より正確に言えば、(2)の議論を受けて、(1)の議論が要請されるという事ですけどもね)。

当然、医学的に発がんリスクが200%上昇すると仮定すれば(仮定の議論ですよ、あくまでね)、社会的にたばこを抑制する必要があるという議論は当然成立します。逆に、発がんリスクを低減するとすれば、どんどん広げていけということになります。
今現在の標準的な医学的見地は、たばこには害があるというものであって、よって法学的にも一種のフェールセーフとして嫌煙派擁護の立場を取っているわけです。

何でもかんでも取り締まるだけがルール作りじゃないという人もいるでしょうが、現状の統計の限りでは、規制した方が良かろうという結論を導く事は容易です。路上喫煙は副流煙をばらまきますし、歩きたばこは低身長者(子供など)への危険性が伴っています。また、防火の観点から禁煙が要請される区域(車両内、地下鉄線内など)も当然あります。こうした状況を鑑みたとき、個人の倫理に任せるのでは不安定すぎます。罰則を伴う事で初めて一種の社会正義として機能しうるのです。

ただし、一つだけ注意しなければならないのは、タバコの健康への悪影響がない、もしくはプラスの影響だという事がスタンダードになれば、法令もそれに合わせて改正する必要があります。法律というのは、誰かの権利を守るために存在するのですから、誰の権利も侵害せず、かつ公共の福祉に合致する限りで、即刻廃止されるべきです。

正直な事を言えば私はタバコを吸う方はご勘弁願いたく思います。煙が堪らなく目に染みるのでね。
ただし、それを法的に規制するか否かは、個人的経験ではなく、統計に基づいた医学的スタンダードの要請を受けて議論されるべき事かと思います。

では。